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斎藤長三、佐渡政党史稿における相川暴動

斎藤長三、佐渡政党史稿における相川暴動文章は彼の見解を表している。

  • 相川の米騒動[二十三年六月二十九日]

二十三年六月二十九日 相川に米暴動起る 其原因を見るに当時米価は十一円台に上り相川町に於ける細民の困苦一方ならず三々五々各所に集まりて稍不穏の状勢を示したのである此時鑛山工夫に小川久蔵なる者あり米価の騰貴は米商の買占めによるものなりと憤慨し遂に窮民を煽動して暴動を起し先づ第一番に相川町に精米所を有し最も盛大に営業しつヽある小田の梶井五郎左衛門の其精米所を襲ふて之を破壊し更に市内の米商富豪の家屋機械を破壊し其勢ひ猖獗を極め中山峠を越して将に沢根を出んとす 此時両津より帰り来れる郡長 須藤賢與、相川警察署長 佐藤藤太郎等は之を諭示解散せしめんと努めたれ共 應ぜず遂に中山峠を越し沢根に出て青野半五郎の数本の大酒桶を打ち破り幾百石の酒を流棄し二見に向ひたる一隊は舟を泛べて青野の所有船八百石積の大和船萬徳丸の海に浮び居れるに石油を注ぎて之を焼払ひ更に進んで河原田に迫る 此途次各戸が禍ひの自家に及ばんことを恐れ皆炊出しを為して握り飯を與へ或は酒を出して之を饗しければ

ここまでは北冥雑誌などと変わりのない経過の説明

暴徒は一層昂奮し其河原田に至りたる時は、往年河原田町の有志者が首脳となりて相川に在る諸官衙を河原田町に移転せしめんとしての運動を為したることを思ひだし米商は勿論なれども米穀に何等関係なき処の者も右移転運動に関係ありし者の家屋は破壊し帳簿書類物などは途上に投げ出し焼払ふ等其惨憺目を覆はしむ

このことは斎藤長三の独自な説、長三は官衙移転運動の実行者

爰に於て河原田警察分署寺尾精一郎は黙視するに忍びず部下の警察官に命じ抜刀して之を鎮壓せんとせしも暴徒は一時は驚き退却せしも善宗寺の竹藪に入りて竹槍を造り酒の威を藉り再び進み来りしかば警察官も力及ばず為すが侭に任せ置くの外なかった

この箇所は北冥雑誌などと変わりのない

此時中山小四郎の親戚中偶々暴徒中に知人ありたりければ之れに頼りて酒食を供し若干の金を與へて難を免れんと交渉の結果其宅前に「予約済破壊すべからず」の看板を立てヽ其難を免れたとの珍談もあった

この節は長三の独自な知識

斯くの如く彼れ暴徒は恣に暴威を振ひ前後の差別もなく三々五々隊を組んで郡内各方面に横行したれば郡民は戦々恐々として安き心もなかりけれ共 当時佐渡には未だ海底電線なく郵便の報告なりしを以て三十餘名の警官の渡来せしは七月三日、新発田聯隊より歩兵一個中隊の来りしは同五日にて已に自然的沈静したりし後なれば所謂六曹九菊であった

偖て此米騒動には裏面に入りては官衙移転問題の復讐や来る七月一日執行せられるべき第一回衆議院議員選挙にも関係ありて計画的の潜み居るものヽ如く論ずるものあり殊に昭和十六年相川区裁判所検事 小泉輝二朗の如きは公々然と新聞紙上に尓かく論じ居れ共 決して然らず

この文ほど小泉の説に明確に反論しているものはない

河原田へ進み来りたる時に二三の好事家が言ひ出し已に酒に魂を奪われ居りし人々の付和雷同せしものに外ならじ

去れば教唆等の嫌疑を以て引致されし相川町長 秋田藤十郎や代言人 中島吉次郎等の無罪放免となりしを見ても知れるべく又暴徒中一人の夫れらしき罪名を受けたるものなきを見ても首肯されるのである

暴動嫌疑にて捕縛されし者は皆相川羽田より汽船にて新潟裁判所へ送られしが夫は言ふまでもなく相川町長 秋田藤十郎、代言人 中島吉次郎始め百二十四人なるが其中六十五人は左記の通り処刑されたが他は無罪放免となつた、秋田中島も則ち其無罪の内である、裁判言渡により分類すれば左の通りである

十三年一人、十二年一人、元凶小川久蔵は七年にて、五年一人、四年十一人

三年八人、二年六ヶ月二人、二年十七人、一年六ヶ月二十二人、六ヶ月一人

斗六十五人

或る書に此米暴動の事を左の如く記して居る

或る書とはどれか?

此暴動を起す動機は米価暴騰に起因して細民救助を名目として起り□々加勢する者多く気勢に乗じて益々凶威を極め郡長も警察署長も手の下し様なく只傍観して居る体なれば彼等は面白半分に暴れ廻りる折柄第一回の衆議院議員選挙目前の事にて自由党の候補者 鵜飼郁次郎に反対せる改進党の候補者 益田克徳の運動者は鵜飼の得票を減ぜしめんが為めに幾分か暗に応援して鵜飼を殺せとか、鵜飼家へ乱入するとかの貼札又は風説を多からしめ一時は鵜飼へも乱入するが如き形勢なりしより各地より警戒の通信煩繁にて両津警察分署よりは藤田署長を始め巡査数名は鵜飼家へ詰切りにて防備を謀る、又鵜飼の居村明治村にては各戸一名づつの男子同人方に集まり警戒する等実に未曾有の騒ぎであった云々

是より先二十三年六月逓信省より佐渡郡長へ

架設費用五万円の内三万五千円を佐渡人民に於て負担するや否や

と照会し来りしかば郡長は六月二十日町村長を郡役所に招集して之れを謀りしに町村長は三万五千円の多額に驚き「目下の状況にては到底負担し能はず」と決議したるを以て郡長は其旨を逓信省へ回答したるに図らずも同月二十九日相川町に此米暴動が起り勢ひ猖獗を極めた、郡長は之を県庁に報ぜんとするも電信なきを以て何共する能はず幸いにして直方に鎮静したが、県庁にては郵便の急報によりて三十の警官を派送し又新発田分営より一個中隊の歩兵を渡海せしめしも暴動鎮壓数日の後であった

此時に至って國民は大に驚き電信速成を希望したれ共 三万五千円に恐れて請願する等の手続きは取らざりしも郡長としては知事に対し大に要求する処があったとのことであった

当時、佐渡と新潟との間に海底電線がなく、電信による暴動連絡が不可だったために、兵の派遣が遅れたことを云っている

以後、代議士となった鵜飼郁次郎の運動で海底電線が敷設された。

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